[2014.07.16] 「マレーシア・トゥルーリー・アジア夏期学校」派遣学生候補決定!
[2014.10.27] 「マレーシア・トゥルーリー・アジア夏期学校」派遣学生レポート発表!
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8月26日の早朝、我々はマレーシアの地に降り立った。ここからの3週間、我々はこの異国の地マレーシアで驚きと発見に満ちた日々を送ることになる。単一民族国家であり、いわゆる先進国と呼ばれる日本に生まれ育った我々にとって、この国にあるすべてのものが珍しく、時に少しばかり受け入れがたく、同時に極めて魅力的であった。マレーシアと日本、この全く違う性質を持った2つの国が互いに学び合い、共に大きく発展するためのヒントを今回の経験を振り返りながら考えてみたい。
マレーシアを一言で表すとするならば、それは「おもちゃ箱」である。私がこの地を「おもちゃ箱」と形容したのには理由がある。
第一に、このマレーシアという国は多民族国家であり、中国系、インド系、マレー系といった様々なバックグラウンドを持った人々が生活を共にしている。それゆえに国内で使用される言語やこの地に広がる食文化、ライフスタイルといったものは本当に多種多様である。こうした環境下で、各民族それぞれがお互いの文化を尊重し、理解し合いながら一つの国を作り上げているその姿は、単一民族国家に暮らす我々日本人にとって極めて魅力的なものであり、その地に足を踏み入れることは、まるでおもちゃ箱を開けた時と同じような、体中がわくわくする感覚をもたらしてくれる。
第二に、この国は良い意味でも悪い意味でも「ごちゃごちゃ」しているという点である。郊外からひとたび街に出れば、道路を走る膨大な車やバイクの数に目を見張る。クラクションが鳴り続ける中、その間を縫ってなにごともないかのように平然と道路を渡る人、人、人。我々日本人にとっては信じられないほど無秩序で、さすがに穏やかであるとは言えないがなんともいえない自由で大らかな空気をまとったその光景は、この国では当たり前のことであり、昼夜関係なくそれは続く。国内に存在する中小企業や露店、飲食店の数もまた日本とは比べ物にならないほど多く、常に街なかはそうした店に集う人々で賑わっている。夜になっても全く減る気配のない街の灯り、人々の笑い声、車の音。そうしたものがこのマレーシアという国に流れる、とめどないエネルギーの大きさを我々に教えてくれるのである。
さて、この“おもちゃ箱の国”マレーシアには日本が学ぶべき点が多数存在する。ここ数十年の急激なインターネットや交通網の発展により膨大な量の人やもの、情報が世界中に流通し、いわゆるグローバル化が進行するこの現代社会において、「グローバル人材とは何か」という問いは、これからの日本の将来を担う我々若者にとって極めて重要であり、かつ根本的な事柄である。日本ではいまだに「グローバル人材=英語が話せる」という考え方が根強く、就職活動や各人の仕事の場においてTOIECのスコアを気にする学生や企業は少なくない。世間では「グローバル」という単語が絶え間なく飛び交い、より良い仕事を求めて皆が皆、必死になってTOIECのスコアを伸ばそうとしているこの日本。私はかねてからこの状況に疑問を抱いていた。マレーシアで出会ったDaniel, Chin, Andrew, Bryan, Jasmineという五人の中国系マレーシア人の友人たちとの関わりを通じて、グローバル人材に求められるスキルとはどのようなものか、またそれを得るためにこれから先の日本がすべきことは何であるかということについて少し考えてみた。
我々が初めてDanielたちに出会ったのは現地の大学で開かれていたIT学科の軽食パーティに参加したのがきっかけであった。初めにDanielは私たちに日本語で話しかけ、その後の交流においても、互いに片言ではあったが、英語と日本語両方でコミュニケーションを取ることが可能であった。彼らは中国系マレーシア人であり、マレー語、英語、マンダリン、そして片言の日本語を話すことができる。これは日本人にとっては驚くべきことであるかも知れないが、このマレーシアという国に暮らす彼らにとっては、彼らがバイリンガル、トリリンガルであるということは特に珍しい能力ではない。前述のとおり、この国には様々なバックグラウンドを持った人々が共に暮らしている。そのため使用される言語の種類も様々であり、公用語のマレー語の他に、英語、中国語、ヒンドゥー語、アラビア語といった多種多様な言語が飛び交っている。このような環境下で生きるためには一つ以上の言語を使えるというのは必要不可欠であり、当たり前に身につけるべき能力なのである。滞在中のある日、Danielと共に我々をドライブに連れて行ってくれたAndrewはその車中において自らの言語習得の方法について詳しく教えてくれた。
彼はもともと中国系の出身であるため、幼いころから第一言語として中国語を話していた。日本人のイメージでは、小学校に入ったらまず自分の話している言語(日本語)の読み書きを習うといったものが一般的であるが、彼らの場合は違う。小学校に入学するとまずはマレー語の授業が始まり、基本的な文法や読み書きを学ぶ。それに合わせて小学校高学年になると英語の授業が始まり、その後中国系の中学校に入って初めて自分の第一言語である中国語の読み書きを学んだそうだ。ちなみに、DanielやChinは中国系ではない中学校に通っていたため中国語の読み書きはできないそうで、このことは私にとってかなりの衝撃であり大変興味深いことであった。彼らは普段の生活において英語と中国語をミックスして使用し、その時の自分が意図するニュアンスにより近いほうの言語を選ぶ。どちらが得意でどちらが苦手という意識はなく、彼らにとっては言語とは「測るべきスキル」ではなく、「使うべきツール」なのである。もちろんこれは本来であればごく当たり前のことであるが、今の日本はどうであろうか。
日本の英語教育については数多くの議論が存在し、近年小学校教育に英語が取り入れられるということが話題になったが、街を歩いていて外国人に英語で話しかけられた時にきちんとした対応をすることができるような日本人はまだまだ少ない。今回のマレーシア人との交流を通じて日本人の英語能力、特に実践的な会話能力の乏しさの原因は圧倒的なアウトプット不足であるということを改めて実感した。我々に必要なのは「言語はスキルではなくあくまでもツールである」という認識の転換と、実際に使う、話すことに対する人々の抵抗感を緩和するような英語教育であると考える。これらのことを実現するために、マレーシアの教育制度や言語に対する認識というのは日本が大いに見習うべき点であると言える。さらに、マレーシアの人々はグローバル人材として最も重要であると思われる「他文化を受容する能力」が極めて高い。これは言うまでもなく彼らが文字通り、「多文化社会」に生きているからであるが、単一の文化の中で限られたコミュニティに重点を置く低関係流動性社会に暮らし、自身と性質が違うものに対する抵抗感を抱きやすい日本人にはこのような能力は乏しい。私の考えるグローバル人材とはこの「ツールとしての言語能力」と「他文化への豊富な知識を持ち、それらを受容し尊重する力」を併せ持つ人物であり、マレーシアにはこうした人材が多く存在するということが今回の滞在により明らかになった。我々日本人もまた、彼らのこうした側面を積極的に学び、それに習って行動できるようになれば我々が生きる世界は今よりももっと広がり、光り輝くに違いないのだ。
去年の今頃は大学3年生の夏休みをマレーシアで過ごすとは思ってもいなかった。
「あ。マレーシア、行こう。」
最初は完全なる思いつきであり、直感的にこのプログラムに参加することを決めた。しかしこの直感こそが新しいものや人との「出会い」につながるものであり、そのおかげで今回、同じプログラムに共に参加した15人の日本人メンバー、マレーシア政府観光局の徳永さんや運営事務局の片桐さんやハロルド先生、そして現地で出会ったかけがえのない友人たちと巡り合うことができた。この3週間の経験は私の人生において決して忘れることのできない貴重なものとなり、自分の「直感」に従って行動することの大切さを再認識した。
自分の今いる環境が変化したり、そこから飛び出すことは誰だって怖い。しかし、勇気を持って知らない世界に飛び込んでみるとそこには意外と楽しく、きらきらした世界が広がっていることが多いのだ。このマレーシアでの経験を糧に、今後もひらめきを大切に、飛び込むことを恐れずにこれからの人生を歩んでいきたいと思う。
最後に、今回のプログラム参加にあたり、手厚いサポートをして下さった関係者の皆様に深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。