派遣生レポート

マレーシアの熱気を感じて

立命館大学 経営学部 国際経営学科
西山 宇幸

2012年はルックイースト政策30周年の年です。このような記念すべき年に、ルックマレーシアプログラムのメンバーとして、マレーシアを訪れることができたことを大変嬉しく思います。かつて、マハティール元首相が日本から学んだように、私もマレーシアでたくさんの人と出会い、多くのことを学びました。そこで、この経験を元に、日本で生まれ育った私が考えた事を述べたいと思います。

まず最初に、マレーシアという国名を聞いて何を思い浮かべるでしょうか。マラッカ海峡やオランウータンなど様々なことをイメージできると思います。私の場合は、多民族社会でした。マレーシアには、さまざまな民族が住んでおり、地域によって異なりますが、国全体としては、半数以上を占めるマレー系、中華系、そしてインド系の主に3つの民族で構成されています。この他にも、さまざまな民族が暮らしています。現在、世界の人口は、多い順番に、中国、インド、アメリカ、インドネシアの順になっていることからもわかるように、マレーシアに滞在することで、人口が多い3民族と交流することが出来ます。そして、到着後に感じたことですが、赤道近くに位置しているけれども、想像していたほど暑くなく、とても過ごしやすい気候でした。さらに、発展を続けている国とはいえ、社会がすごく落ち着いてるとの印象を受けました。時差がわずか1時間ということもあり、日本からマレーシア、マレーシアから日本と、大きな違和感を感じる事なくスムーズに現地での生活に適応していくことができました。

では、どのように多民族社会が成り立っているのでしょうか。クアラルンプールでの生活、ホームステイ先での生活、そして、大学での生活から考えてみたいと思います。まず、クアラルンプールは、マレーシアの首都であり、非常に発展している都市です。ひとたび、街に出れば、現地の人々や、世界各国からの旅行者など多種多様な人とすれ違いますし、ショッピングモールには、日本資本の店や、日本でもよくみかける海外資本の店、そして、現地資本の店が並んでいます。クアラルンプールの街を歩くと、発展を続ける街の様子と、様々な人種が合わさって、熱気のある雰囲気を感じることができます。そこには、自分自身が誰で、どこから来たのかは関係なく、自然にとけ込んでいけるような空気感があります。私たちが滞在した大学もまた多様な人が存在する環境でした。マレーシアがイスラム教国であることから、中東からの留学生もたくさんみかけました。大学のカフェテリアで眺めていると気づく事があります。多種多様な人々がいるのですが、彼らは自身と同じ背景を持った人と一緒に行動していることが多いということです。同じ国出身であったり、同じ民族であったり、それぞれの帰属意識により、グループが形成されていまいした。 これについては、クアラルンプールの街でも同じ事が言えます。街の中には、中華街やインド人街などが存在しており、それぞれ各民族の人々が居住しているエリアがあります。そのエリアでは、ある特定の民族しか住んでいません。これは、私がホームステイした村にもあてはまり、そこには、マレー人しか住んでいませんでした。

このようにマレーシアでは、多種多様な人が存在し、1つの国の中で共に生活しているけれど、やはり同じ文化や価値観を持つ人との方が過ごしやすいので、必要以上に干渉する必要はないのだと思います。しかし、なんの配慮もなく共存する事はできません。自分自身について理解し、相手を理解しようと努め、そして、その違いを認めることが必要不可欠です。実際、私も、いろいろな人と会って話す中で、日本にいるときとは違い、相手の背景というものに注目するようになりました。自分と異なる宗教や文化を持った人と、接することで、自然と相手を思いやる気持ちを持つことができるようになります。そして、このような環境で育ってきたからか、滞在中に怒ってる人を見かけることはありませんでしたし、みな楽しそうに生活しているように感じました。違いは当たり前なので、些細な事では、イライラしないのでしょうか。そして、人々は、私たち外国人に対してもあたたかく接してくれます。私が日本人だとわかると、好奇心を持ち、いろいろ日本について質問されることが多々ありました。ここでの私の受け答えが日本のイメージとしてその人のなかに多少とも残っていくことを考えると、なかなか重要な会話をしているのだなと感じ、国のイメージを、1人1人が築いていっているものなのだなと実感しました。

ところで、みなさん、マレータイムという言葉をご存知でしょうか。この言葉は、マレー人が時間にルーズだということを表して、誰か外から来た人が言い始めたのだと思います。例えば、集合時間が9時だとすると、10時ぐらいにならないとみんな集まらないということです。時間通りに行動することが、あたりまえな人は、驚き、あきれるかもしれません。しかし、彼らマレー人の立場から考えると、集合時間の前に到着しておくべきだという概念は、理解しがたいものでしょう。今の世界では、時間通りに行動することが求められ、それがスタンダードになってきていますが、同時に、多くの人が時間に追われて生活しています。自ら主体的に、時間と向き合い生活している人はどれだけ存在しているのでしょうか。時間の捉え方は、さまざまあり、どちらかが正しいわけではありません。状況にもよりますが、マレータイムという概念を持って生活すれば、人生がより豊かになるかもしれません。

この時間の捉え方のように、自分自身のあたりまえは、必ずしも相手のあたりまえではありません。あたりまえのことですが、忘れがちなことです。私を含め、多くの日本人は、他のアジア諸国をみるときに、私たちの方が進んでいると思い込んだり、相手の習慣や文化を尊重することを忘れがちです。現在の世界は、急速に発展を遂げており、様々な事が、瞬く間に変化しています。昨日の正解が、今日の正解とは限らない時代において、つねに新しいものを受け入れていく柔軟性は必要不可欠だと感じます。 そして、この柔軟性は、同質の人との関わりのなかでは、なかなか身につける事が難しく、常に自分とは異なる人と接することで、自然と身につけていけるようなものだと思います。

歴史をひも解けば、マレーシアはマラッカ王国が存在した頃から、海上交易に従事し、東西交易の拠点として東洋と西洋を問わず、さまざまな文化が流入し、多種多様な人が住んできました。そして、その伝統は現在にも引き継がれています。交通の要所としての役割も、エアアジアがマレーシアに拠点を置いており、アジアの空の玄関として、さまざまな人が訪れています。さらに、多様な料理や豊かな自然にも恵まれています。それぞれの民族の料理に加えて、日本料理を含む世界各国の料理店があり、3週間の間滞在していましたが、毎日違うものを食べてもなお食べきることのできないほどです。自然についても、世界中を旅してもこの国でしかみることができないものがたくさんあります。多種多様なものがぶつかって歴史を築いてきたマレーシアに滞在することで、普段の日本では経験する事の出来ないような、刺激に満ちた日々を過ごすことができました。

私が、マレーシアから日本に帰ってきて感じた事は、なにか物足りなさでした。食べ物もおいしいし、安全で、さらに、細やかな心配りが行き届いていて世界でも類をみない日本という国。しかし、その一方で、失われた20年といわれるように、出口のみえないトンネルにいる現在の日本。この感覚は、国に活気がないからなのか、それとも、異なるものと接する機会が少ないからなのか。どちらにせよ、私が言えることは、どちらが今、そして、これからの世界のスタンダードなのと聞かれたら、現在の日本の状況ではなく、マレーシアの状況だということです。かつてルックイースト政策でマレーシアが日本から学んだことは、技術だけではなく、道徳や倫理といった価値観でした。 外に目を向ければ、さまざまな世界が広がっています。今こそ、固定観念を捨て、自らの国の過去、そして、アジアの国々から謙虚にそして貪欲に学ぶときです。

最後に、マレーシアでの3週間の滞在を通して、言葉にできないような経験をし、夢のような時間を過ごす事が出来ました。出会った全ての人にありがとう。素敵な出会いに恵まれて、忘れる事の出来ない一瞬一瞬でした。マレーシア、日本という素晴らしい両国にありがとう。

Terima kasih banyak-banyak. (Thank you so much.)